2009年5月31日 「信者と聖霊」

2009年5月31日のペンテコステ(聖霊降臨日)記念礼拝メッセージはヨハ7:37-39から「信者と聖霊」と題して話されました。聖霊は昇天なさったイエス様からの贈り物です(使2:32、33)。聖霊は信者との関係に3つの働きをしてくださっています。①信者と共に働かれる働き(ヨハ14:15-18)イエス様が助け主、親に死なれた孤児としないで、そばに立つ弁護者として来て、聖霊を通して罪、義、裁きなどについて教えてくださる。聖霊がイエスの完了した十字架の働きの徳を示してくださる(ヨハ16:7-15)。②信者のうちに働かれる働き(ヨハ4:17)。信者の中にある湧き出る泉は永遠の命のいける水です。(ヨハ4:10、14)。イスラエル民族は荒野でこの聖霊の働きを予想して(イザヤ63:7-14)、キリストによるこころの安息を語っています(ヘブ3:18)。③信者を通して働かれる働き(ヨハ7:38)。中にある泉は川となって流れ出るようになることです。エゼキエル47章にある川が海(国々)に影響することは(8、9節)、世界福音宣教の働きを予想しています(マタ28:19)。このために聖霊バプテスマを受ける必要があります(ルカ24:45-49;使1:8)。共にいる聖霊は生まれ変わることによって知ることができます(ヨハ3:5-8)。うちにいる聖霊は日々生活の中で聖霊に従うことによって知ることができます(ロ8:1-6)。自分を通して働かれる聖霊は聖霊バプテスマを受けることによって知ることができます(ルカ11:13)。数ヶ月前にビックトリア州で大幅の山火事が起こって、人間と動物の死者がたくさん出ました。ところが、一番印象に残ったのは焼かれた毛をして、破壊された森の中から出た一匹のコアラです。コアラとは先住民のことばで「水を飲まないという意味」ですが、消防士がペットボトルから「サム」と名づけられたそのコアラに水を飲ませる写真が世界中の人々に感動を与えました。サムは必死になっていたので、水を飲みに来ました。あなたも聖霊に乾いてないでしょうか。乾いているなら、イエスのもとに飲みに来ようではありませんか。

2009年5月24日 「キリストの昇天と聖所の意義」 キリストの昇天シリーズ その2

2009年5月24日の礼拝メッセージはキリストの昇天シリーズとして、ヘブル10:11-23から「キリストの昇天と聖所の意義」と題して話されました。ヘブル書の記者は始めて、その書の課題を信仰生活に当てはめています。聖所にはいることができます(ので)、神に近づこうではありませんかとチャレンジをしています。この記者は読者が旧約聖書時代のモーセの幕屋をよく知っていると見ています。私たちならどうでしょうか。わからないのなら、ここに出ている「聖所に入る」とはどういう意味なのかわからないのです。幕屋の仕組みは出25-30章に詳しく書いてあります。庭と聖所と至聖所とでできています。この地上の幕屋が天にある幕屋の雛形です。イエス様が天に昇られた時に天の幕屋、しかも、聖所ではなくて、至聖所に入っておられます。ヘブル書の8,9,10章では地上の幕屋と天上の幕屋が語られています。ただし、日本語訳では、まことの聖所、真実な聖所とは、原語からいえば、「至聖所」を意味していることに注意していただきたいのです。9:6-8は重大な聖書です。前の幕屋とは、「聖所」で、まことの聖所とは「至聖所」です。イエス様がまだ地上にいる間、至聖所への道はあきらかにされていない、(開かれていない)。しかし、天に昇られてから至聖所は私たちのために開かれました。ここに、はじめて、礼拝者と言う言葉を取り入れました。これは、私たちが至聖所で何をするのか、また、至聖所になぜ入っていかなければならないか示しています。礼拝するためです(13:15)。今、天の幕屋に聖所はなくなって、至聖所だけが残っていると思います。至聖所に入るためにイエス様が十字架の完了したはたらきと、血潮と、復活と、昇天という自分の役を果たされました(10:19、20)。私たちのなすべきことは、信仰と信仰の実際をしめす事柄(19、22節にありこと)をして、神にまことの礼拝をささげて、至聖所に入っていくだけです。そのほかの礼拝は天井にぶつかって、もどってしまうのです。イエス様は父がまことの礼拝者を求めておられるとおっしゃいました(ヨハ4:23、24)。このまことの礼拝はまことの礼拝者がまことの聖所、すなわち、至聖所の中でしかできないのです。神と親しさ(知識的に知っている立場)ではなくて、神と密接な立場から礼拝するために、至聖所の中で、神に近づこうではありませんか。

2009年5月17日 キリストの昇天と完了した十字架のはたらき キリストの昇天シリーズ その1

2009年5月17日の礼拝メッセージはヘブル10:11-18から「キリストの昇天と完了した十字架のはたらき」と題して話されました。マルコ、ルカ、使徒の書は昇天を記録していますが、その神学がエペソとヘブル書に発展されています。十字架の働きの完了には2つの部分があります。地上では人類の購いと救いがあり、天上ではイエスが人類の為に執り成しの祈りを通して十字架のはたらきの結果を生じさせると言うことがあります。ヨハネ17:4;19:30。完了した十字架の働きと言うのは、①一つのささげものによって罪が除かれたという意味があります。②きよめられた者は完全にされるという意味があります。③敵にたいして勝利を得るのを期待すると言う意味があります。「敵を足台にする」とは、ヨシュア10:24参。このことばは詩110:1から新約聖書によく引用されています。キリストの敵には次のものがあります。福音発展に対抗するもの1コリ16:9。救いの証をあざけるものピリ1:28。福音に両立していない生活をするものピリ3:18。神のことに不信実なもの使徒13:8-10。神と世を妥協しているものヤコ4:4。サタン1ペテ5:8,9。死1コリ15;24-27。クリスチャンはキリストと共に天にあげられて、体なる教会の中で、勝利を保証された立場から戦っています。エペソ1:19-23。過去のことは過ぎ去られて、神との新しい関係に入っています。エペソ2:1-8。自分は何ものか知っています。エペソ2:10-13。そして、神に定められた使命を受けました。エペソ4:9-13。これはキリストの昇天と完了した十字架の働きのことです。

2009年5月10日 お母さんの役割とキリストの体

2009年5月10日は母の日で、礼拝メッセージはヘブルの手紙10:1-7から「お母さんの役割とキリストの体」と題して話されました。女の人の役割は母となって、満足されるのです。漢字辞書を調べると母を含めた字はあまりありません。それほどお母さんは唯一の存在を示しています。例えば、母:正座をして、胸に二つの乳房がある女の人をえがいた字。毎:頭にかんざしをつけた母を描いた字。母親は次々と子供を産むことから「ふえる」ことと言う意味を表し、ふえたもの一つ一つをさす言葉に使われるようになりました。毒:芽を出した草と母を合わせた字。薬草をぐたぐたにつぶして、しぼったもので、子供をうむ女の人が使います。創3:20に 「人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである」。聖書の中で母という言葉が365回、出ています(一年の日数)。ある母は目立っています。リベカ、創24:60。モーセの母、無名で、出2章。ナオミ、ルツ記。ハンナ、1サムエル記。敬虔な母、箴言31章。イエスの母マリヤとバプテズマのヨハネの母エリザベツ、4つ福音書。テモテの母ユニケ、2テモ1:5。ここで、イエスの母マリヤを見ましょう。マリヤの生涯に7つの意義あるできことがあって、その一つ一つは母と言うものの役割と心を示しています。① 夫ヨセフと婚約者になったこと(マタ1:18-25)。結婚生活と母親になるのを期待していました。でも無経験なので心配したでしょう。② 天使の現れと自分の運命に出会うこと(ルカ1:26-38)。次々と彼女の生涯は引っくり返されました。飼い葉桶でのお産とイエスの誕生、賢い人と羊飼いたちの訪れ、エリザベツとシメオンの予言、エジプトへの避難。③ イエスが12歳の時に宮詣のこと(ルカ:41-52)。マリヤは自分の子供に対して神の運命に直面して、それに子供を委ねるようになります。④ カナンの婚礼のこと(ヨハネ2:1-11)。息子に対して、誇りをもった母マリヤは神の計画を無理に成就させようとしましたがイエスが「私の時はまだです」といわれました。⑤ 故郷カペナウムでのこと(ヨハ2:12)。一人親となったマリヤが家族の一致を保ちながら、なくなった夫ヨセフがした大工の商売を続けたでしょう。⑥ 十字架のこと(ヨハ19:25-27)。母マリヤは仕方のないまま息子が死んでいくのを見なくてはなりませんでした。でも、今は、イエスを救い主として信じていたでしょう。(イエス様が復活してから母マリヤに個人的に現れた記録はありません)。⑦ ペンテコステの時のこと(使1:14)。マリヤは聖霊による信仰生活を送っている信者の型です。第2部。ヘブル10:5に「わたしのためにからだを造ってくださいました」とあります。ここにある「からだ」とは、① 御子なる神がこの世に入るために利用したマリヤのからだ。② 旧約聖書の中で見える、動物のからだによるいけにえの意義を成就したイエスご自身のからだ。③ 信者個人個人のからだ(マタ12:46;ガラ4:19;ロ12:1、2)。④ からだなる教会(ガラ4;26;エペ1:16-23)。注意、地上に偽るからだがある(黙17:5、14)。私たちの母の愛に感謝しながら、マリヤの母としての模範にならいましょう。そして、個人的にと合同的に内住のキリストを迎えましょう。

2009年5月3日 友情の代価

2009年5月3日の礼拝メッセージはヨハネ15:12-17から「友情の代価」と題して話されました。地上で人間関係は天において父なる神、子なる神、聖霊なる神の関係を反映しているはずです。イエス様が自分の生涯を通してその関係を示してくださいました。十字架を通して私たちがその神聖な関係の中に導かれます。ヨハネ15;13,15にあるように、イエス様が人間の間にごく普通の人間関係を語っている「友」と言う名称を高く上げ、自分ともっとも密接にできる関係を示すようにお使いになりました。以前に、先生、主、弟子、しもべ、の名称を認められました。これらのものは先輩後輩を示していますが、友とは平等の関係を示しています。旧約聖書が神と人間の友関係を先取りしています。①アブラハムは神の友と呼ばれています(2歴20:7;イザヤ41:8;ヤコブ2:23)。これは信仰の初歩で信仰による義を語っています。②ルツとボアズは無信者とキリストの型で、神の国に受ける永遠の遺産を守ることを語っています(ルツ2:13)。③ソロモンと花嫁は花婿なるキリストと花嫁なる教会の型で、教会(信者たち)が永遠にキリストと共に住むことを語っています(雅歌5:1)。箴言18:24に兄弟より密接な者〔友〕がいる。これはイエス様です。では、イエス様と友関係の特質はなんでしょうか。①知識。15節。神の御心を知ることです。②使命。16節。神の御国の中で成功ある使命に任命されることです。③資料。16節。祈りによってその使命を成功する為の必要のものが与えられること。イエス様が弟子たちと友関係を取り入れたのは過ぎ越し祭りの中で取り入れられた「聖餐式」の後に関連しています。1コリン10:16-21の中で、あずかると交わると言う言葉に注目すべきです。この2つの言葉は物と人が一体となると言う意味です。これは「友関係」と言う意味と同じです。あずかるとは両者の関係を意味しています。交わるとはその関係を確実にする誓約を意味しています。聖餐式は十字架の型で、イエス様と友関係を再確認するところです。

2009年4月26日 「福音に立っている。」

先週の礼拝より
2009年4月26日の礼拝メッセージは第1コリント15:1-8から「福音に立っている」と題して話されました。イースターに引き続いて、復活のテーマをもう一度取り上げました。「立つ」とは、生活のよりどころ、そのことを成立するもとになるもの、人または物が一定の役割をもって、秩序ある全体を組み立てることという意味です。福音はクリスチャンの生活の中でこのような役割をしています。初代教会のクリスチャンには、現在、私たちが持っている一巻した聖書はなかったにもかかわらず、りっぱな信仰生活を見せてくれました。なぜなら、彼らは復活されたキリストの目撃者であったので、イエス様が生活の中で現実のものとなっていたからです。2世紀のおわりで、回想の形で、福音の神学が教会の中で広まり、その「福音」が「生活のよりどころ」となりました。福音を生活の中で実際に行っていないなら、「信じること自体が、無駄になってしまう」可能性があるのです。では、どのようにして福音を生活のよりどころ(ささえ、成立するもと、秩序ある全体を組み立てるもの)にすることができるでしょうか。①福音の数々の真理を生活の中で現実化することによる〔15:2〕。固く守る、しっかり覚える、保つ、とは旧約聖書の時代は記念像を建てることによりましたが、私たちの場合は、生活の中で福音の真理を実行することによるのです。②イエスの十字架と復活に対して深い関心を持つことによる(15:2,3)。救いの代価、すなわち、イエス様が御自分を犠牲にしてくださったことを理解すればするほど感謝でいっぱいになるはずです。③信仰の先輩である兄弟姉妹たちの証を通して励ましを受けることによる(15:5-7)。福音の真理は使徒たちのイエス様との経験の証によって定められました。私たちも兄弟姉妹に自分の生活を語り告げる必要があります。④個人的にイエスキリストを確実に経験することによる〔8〕。月足らずで生まれた(改心された)使徒パウロがイエス様を肉眼で見たことはないが信仰によってイエス様を見て、そして信じて救われたことが私たちの型です。福音と言うのは全世界の人々の生活のよりどころです。あなたの生活にとってもそうでしょうか

2009年4月12日 「十字架と復活の力。」

先週の礼拝より
2009年イースターシリーズとして、使途の働き2:22-32から「十字架と復活の力」と題して話されました。彼は死につながれていることなど、ありえない、という言葉を中心にして、クリスチャンの勝利ある生活の秘訣を学びました。十字架と復活に幾つかの力がはたらいていることを見ることができます。① 神の永遠の計画の力〔23〕。② 人間の罪の力〔23〕。③ 神の言葉の力。その"ありえない"という理由は神の命令があるからです(ヨハ10:18;19:10,11)。これらの力がわたしたちの信仰生活の中ではたらいていて、悪を生じ、または、善を生じさせています。そして、悪の目的をありえないようにし、善を可能にして働いています。これらの力が次の結果を生じさせるでしょう(24-28)。詩篇16:8-11と比較して、① 霊的な土台の上に生活を建設する力〔25〕。ダビデは神を生活のあらゆる面で見て、どんなに抵抗してくるものがあっても動かされない。② 精神的に健全で生きる力〔26〕。喜び、安らぎ、希望は抵抗するものに対して示すべき活動的官能です。③ 天国に対して希望を持つ力〔26,27〕。キリストの復活は天国の保証です。ですから、たとえ生活上はハデス(燃えつくす火)のような状態であっても、やがてその中から救い出されるようになります。④ 神の計画の中で日々の生活を歩む力(28)。詩篇16:11にある(あなたは私に、命の道を知らせてくださいます)未来形でいうこの可能なことは、使徒2:28にキリストの復活にとって現実になるのです。⑤ キリストの証人となる力(32)。ペテロはこれをペンテコステの御霊に結び付けています。聖霊は私たちの証の言葉に力を与えてくださいますが、復活がその証に物体を与えています。キリストは身代わりとして十字架と復活を通して私たちに救いと命を与えてくださっています。そして、私たちが勝利する生活をするためにどんな力があるか示してくださるだけではなく、その力をご自分を信じる者に与えてくださっています。