2014年9月28日 「世界の国々の栄華と神の国の栄光」


2014928のメッセージはブルース先生とリネット先生の牧会20周年記念として、ヨーロッパへの旅行で見て感じたことを中心にして「世界の国々の栄華と神の国の栄光」と題してマタイ4:8-11から話されました。

訪れた7国を英国、ヨーロッパ、アジアの3つの区域に分けて、それぞれのエリアの社会的と霊的状態から信仰生活に関して学ぶ教訓を教えました。

① 英国は歴史的に富んでいるが霊的に貧しいです。   ローマ帝国の西ヨーロッパ方面への発展によってキリストの福音が入ったが、無宗教の国民の風習と混じりあい純粋の信仰が妥協されていきました。真の信仰の象徴である大聖堂は過去の名人の墓になっています。教訓は過去のことだけに頼り妥協に対して用心していなければ霊的に貧しくなり神の命を失います。

② ヨーロッパは文化と芸術に富んでいるが偶像崇拝の奴隷になっています。キリスト教は西洋に法律、組織的な社会の発展、芸術などに大きく影響しました。それと共に聖マリアと聖徒の崇拝、神父により罪が許し得るなどの非聖書的なことを教えるカトリック教が広がりました。プロテスタントの教会はほとんどありません。教訓は、信仰が神の言葉に基づいていないと偶像崇拝と人間崇拝に奴隷されてしまいます。

③ アジアは物質的に富んでいるが非キリスト教的です。近年最も発展している国々はアジアにあります。ところが中東の国はイスラム教、インドはヒンズ教、東アジアは仏教で、キリスト教があまり入っていません。要するに、世のものに関して裕福になっているが真の神を知らないでいます。「もし全世界を設けても、自分の魂を損したらどうしますか」とイエス様が警告されました。

この三つを見ていながらオーストラリアを考えました。世界中の国々の中でも特別に祝福されて、自由で、機会を与える国です。世界中の人々のための避難所となっており、まるで現代のカナンの地の様です。地球に置かれた位置、気候、キリストの信仰に基づいて設立された社会のある国で新しいスタートをする機会を与える国として他に比べることができないです。サタンの試みに対してイエス様は別の国、神の御国の特徴を告げ知らされました。それは礼拝と奉仕のことです。礼拝は集会の中で賛美を歌うことではなく神なるキリストに忠誠を与え、毎日の生活の中でするすべてのことはキリストのためだと言う意味です。このような信仰のために天からの助けが保証されています。あなたはどちらの国の人でしょうか。

 

2014年9月21日 「神様の定めた時の中で生きる」


2014921日のメッセージは木村晴代姉が伝道者 3:1-8より「神様の定めた時の中で生きる」と題して話しました。

 

1節の天の下では、何事にも定まった時があり、すべての営みには時がある。

すべての営みは移り変わり変化があるが、それは神様によって定められているならば今ある状況が神様からであることを受け入れるとき、心に感謝と平安が生まれます。

逆に神様の時を疑い始めるとき、反抗する心が生まれ神様抜きの歩みが始まってしまいます。

 

今がどのような時なのか。それを意識して毎日を生活しよう。

 

日本人教会の今の時を考える。

新会堂に移り場所だけではなく、今が神様が私たちを動かされようとしている時。

一人一人が与えられたところで神の子のアイデンティティをしっかり把握して賜物を用いて働く時。

 

2コリント6:2 今は恵みの時、今は救いの時

神様が私たちに与えようとしている恵みと救い。それはイエスキリストを信じることによる一方的な恵みであり、罪の裁きからの救いです。

イエスの贖いを通して受ける助けと力をもって神様の定めた時の中で行きましょう。

2014年9月14日 「要塞を破る力の秘訣はどこに?」2コリント10:1 - 6 黒田禎一郎先生のDVD

2014914日の礼拝はブルース先生が不在のため、メッセージの時間はたびたび当教会に来られメッセージを語ってくださる 北浜インターナショナルバイブルチャーチの牧師で、また、ミッション宣教の声の設立者であられる黒田禎一郎先生のDVDメッセージ

「要塞を破る力の秘訣はどこに?」2コリント10:1 - 6を見ました。

キリストの柔和と寛容をもって歩んでいきたいものです。

主の豊かな祝福がありますようにお祈りします。

2014年9月7日 「神様、どうぞ私を用いてください」 ショアー明子姉 & 「信仰生活と聖餐の関連性」 関 幸代姉

「神様、どうぞ私を用いてください」     ショアー明子 姉

私は ここ日本人教会で1993年に洗礼を受けました。数ヶ月後に日本に帰国したその時期、甲子園球場3日間に渡って行われた大きな伝道集会に集い、魂が燃やされ喜びに満ち溢れるという体験をし、その集会の中で、私も何か神様のお手伝いをしていきたい、お役に立ちたい、という思いが起こされ、その時から今までに至るまで、様々な奉仕に携さわる機会を与えられました。

  数年が経ち少しずつ私の信仰が成長していく中、いつしか自分に物足りなさを感じるようになりました。命がけで伝道している方に出会うと憧れの思いを持ちますが、さらにもう一歩進み出る信仰がなく、自分でできる範囲の献身だけをして、割り当てられた奉仕を自分なりに一生懸命してきました。

 しかし最近、自分の中になかった考えが頭の中をよぎりました。 『自分の命を人のために差し出してもいい』と。 ヨハネの福音書1513節の『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』というみ言葉と、さらに、イエスキリストがゴルゴタの丘に向かう場面が頭に浮かんできました。 

  イエスキリストは友のために命を捧げました。イエス様の地上での人類救済という使命を果たすため十字架にかかってくださり、罪人の私たちが罰せられなければならなかったのに、イエス様が身代わりとなって私たちのために死んでくださったのです。

  私は今まで自分が何になるのか、何をしていくのか、と今までずっと「自分」に関心を持っていました。

 しかし、自分ではなく神様が主体であり、自分が何かをするのではなくて、神様が何をなさりたいかを知ることがもっと大切だと知りました。 

自分主体ではなく神様主体で歩む時に、十字架を負い、犠牲を払うこともいとわない、と思えるようになり、 永遠の愛を持って私を愛してくださり、真実の限りを尽くしてくださった神様を想うと、神様は私の人生も命もおまかせできる完全に信頼できるお方だと思えるようになりました。

  1週間ほど前、クリスチャンの陶器師の方が書かれた記事を読みました。

この40年の経験を持つ陶器師は、窯から器を出すたびに火というものを通して土が陶器になる不思議さを感じる、と言っています。

陶器として使われる土は山の深い所に眠っている土で、酸素にも太陽の光にもあたったことのない土を掘り出して地上に上げて光を当てるそうです。

私たちもそのような土の存在ではないでしょうか?

私たちはずっと暗闇にいるべき存在だったのに、神様が掘り出してくださり、そして光を当ててくださいました。神様に出会って私たちは器を整えられて、美しい陶器に造りあげられていきます。

想像してみてください。 山の地面の深い所にずっと眠ったままの一生だったら、私たちはどのような人生を歩んでいたでしょうか? 想像主なる神に出会って、私たちはそのみ手で土から陶器に造り上げられていきます。

陶器はそれぞれの目的を果たします。 神様が完全な計画をもって、私たち一人一人を召してくださっています。 

自分を明け渡して「用いてください、主よ、ここに私がおります。」と私は自分を捧げていこうと思います。 皆さんはどうでしょうか? 神様の完全な計画に、ご自分をささげてみませんか?
 
 
「信仰生活と聖餐の関連性」 関 幸代姉 聖書箇所:ルカ24章 132節 、 黙示録320
   ルカ24章の最初に登場する女達は、大きな石、妨げがあってもとにかくイエス様の墓にどうしても行きたい、イエス様にお会いしたい。どんな困難な状況でもどうしてもイエス様にお会いしたいと、とにかく前に進みました。 マルコ164  マルコ168 
   ルカ24章の次の場面に登場する2人の弟子たちは、一緒に話しているイエス様に無理に願うほど、一緒にいたいと引きとめました。 ルカ243032
 私達はどれほど、イエス様をもとめているでしょうか?イエス様とご一緒したいと願っているでしょうか? 
私達がイエス様を求めた時に、女達のように目を上げると大きな石がすでにころがしてある、現実では自分達の力ではとても不可能な神様の奇跡と栄光の業を見る事がで出来ます。女達はイエスの御言葉を思い出した。」とあるように御言葉から既に困難な試練からの解決が語られていたです。
 また、2人の弟子達のように暗い顔つきで希望もない絶望的な中でイエス様ご自身が近づいてくださり、必要な御言葉を通して語りかけてくださる。それが始めはイエス様だと気が付かなくても徐々に元気付けられ、無理に願うほど慕いもとめる。その求めた時にイエス様を心の主としてお迎えしたいと願った時に、目が開かれイエス様と出会う。
 私達がまずイエス様を自分自身の実生活の中にお迎えする、自分の信仰生活の中で、イエス様が全てであるとお委ねするときに、復活の主に出会う事ができるのです。
イエス様の復活、福音が聞くだけ、教えられただけに留まるのではなく、私達が生かされている福音、実生活の中でどれだけイエス様を迎え入れているか、信頼して自分の主権をイエス様に譲り、謙遜になった時、自分の信仰生活の中で、イエス様が全てであると委ねた時に復活の主に出会う、神の奇跡と栄光を自分自身の経験として体験していく事ができるのです。そのためには、イエス様の御言葉に聞く、自分の御言葉として語りかけられているイエス様の語ってくださる生きた御言葉を求める必要があるのです。
 黙示320
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、
 わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
 
イエス様は神様なので何でも出来るのですが、人間の自由意志を尊重しておられます。ジェントルマンなので、決して無理やりに戸を開けることはしません。愛と忍耐を持って戸の外に立ってたたいておられます。自分自身が戸を開けないとお迎えしないと決して入っては来られません。
イエスキリスト様を心の主としてお迎えし、聖餐式に預かることによって、信仰により聖霊の働きによって、神様の祝福を受け、神様との関係を新たにし、イエスキリストによる購いと救いをさらに深く体験できる時です。
聖餐、イエス様とともにお食事をすることにより、力を受けて現実の世界で困難の中でも奇跡と栄光の勝利を体験することができるのです。

2014年8月31日「第二の奇跡」

2014年8月31日の礼拝メッセージはヨハネ4:42ー54から「第二の奇跡」と題して話されました。聖句にある「しるし」の意味は超自然的なものであり、出来事の確認と証明をすることを目的に、そのしるしを行っている者を高め、行ったことの目的を強調することです。

新約聖書の中で人類の贖いという神の永遠の目的を成就されるイエス様を確証しています。いわば、奇跡と言うことを指しています。第二のしるし、奇跡と言われたのは第一の奇跡である2章にあるカナの婚礼で水をブドウ酒にかえた出来事につながっています。聖書の中の出来事は時間の順番に従って記録されていませんが、その記録の順番は信者の信仰の進行を示しているのはよくあることです。第一の奇跡はイエスの身分、神性の栄光とそれを認める信者の信仰を示しています。第二の奇跡は(役人の息子の癒し)キリストの言葉を信じるだけで救われるという信仰を示しています(20:30,31)。役人がカペナウムから35キロメートル離れたカナへ、しかも、山地にある街に登って行きました。この出来事の記録の中に信者の信仰の進行を教えることがいくつあります。

① あなたが誰を尊敬するかがあなたの祝福を決定します。(43,44)。イエスの生れ故郷のナザレの人々はイエスの神性を認めないので彼はそこをバイパスしてカナに直行しました。ナザレの人は神の祝福を受ける機会を逃しました。尊敬することに伴う報いの節を調べてください。出20:12;エペ6:2,3;申26:18,19;箴3:9;ロマ12:10;13:7;1テモ5:17;6:1;1ペテ3:7。

 ② 礼拝を通して神の臨在があなたに現わされています。神の臨在はあなたを神の働きを受け入れる者とされます(45)。ガリラヤ人は過ぎ越し祭りを祝うためにエルサレムに行き神を礼拝することでイエスに出会った(ヨハ2:23,24;3:2)。その後にイエスを自分の町に歓迎しました。詩篇63:1-5はこのポイントの原理を示しています。作者の礼拝の内容の順に注目ー神をあがめる、自分の要求が神を礼拝するように押しつける、喜びに満ちた口から出す言葉で賛美する、手を上げる、そして、満足を得て帰る。このような礼拝でなければ神の臨在を感じません。神の臨在を経験していなければ、神の働きを受けいれる者とされません。

 ③ 神はあなたが「いのち」に入るため、「死」に来るで許されます(47,49)。イエスが行われた37の奇跡の内、6つは人が自分の限界にまでなった時はじめて神にかなえられたことを記録しています。「人の限界は神の機会だ」と言われています。人の限界は信仰、希望、粘りづよさを試されます。

④ 信仰は奇跡に頼るものではなく、信仰が奇跡に先立つのです(48-50)。多くの人が「もし神が私のために何かしてくだされば信じます」と言っています。役人はイエスの言葉を信じて、言葉の中の力を持って帰り自分の状況に付けました。多くの信者がこの霊的な原理を学ばないで、信仰を諦めてしまうのです。

⑤ 奇跡を得るためだけに神を信じるなら 奇跡だけを得るでしょう。奇跡を与える方を信じるなら奇跡を与える方御自身を受けます(50、53)。この物語の中に二種類の信仰が見えています。すなわち、イエスは何が出来るか「奇跡を行う」ということに対する信仰と、誰であるか「救い主キリスト」であることに対する信仰です。この二つ目の経験は本当の第二の奇跡です。新生、罪の許し、救い、永遠の命を受けるしるしと奇跡です。

 

2014年8月24日 「キリストへ人を導く喜びと義務」

2014年8月24日の礼拝メッセージは「変更」のシリーズの中の第7としてヨハネ4:28-42から「キリストへ人を導く喜びと義務」と題して話されました。19世紀の終わりから20世紀の初めに生きていた日本で有名なキリスト教の弁証家、社会改革者、作者である内村鑑三は、墓石に「自分は、日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そして、全ては神のため」という言葉を書いています。これは彼の人生の標語だったようです。要するに、キリストの全ての信者は、世界的、国家的に人類を改良するため、そして、全ての人々の個人個人の救いのためにキリストによる信仰を伝えないといけない義務を持っていると断言しています。キリストにある神の救いの恵みを受けている全ての信者にとって、他の人が同じ信仰を受けるため、その人に影響を与えることにまさる喜びはありません。イエス様は私達に神の国の中に人を生まれさせるという大きな喜びをくださったばかりでなく、そのような働きを要求しそうするように命令しておられます。サマリアの女の体験と私達とイエスとの出会いも、イエスから永遠の命という湧き上がるような救いを受けることで終わったと考えやすいですが、そうではありません。イエスは彼女とそして同じように私達にも、「神の国の業務」に与るような機会を与え、いえ、そうするように命令しておられるのです。ルカ2:49の中の「父に家にいること」の別異訳は「父の家業の中で働いていること」とあります。これは神の国の宣伝の働きです。イエス様は、救いを受ける条件ではなく救いに与る義務だということをサマリアの女に知らせました(4:16)。「行って、呼んで、来て」というこの3つの言葉は、人々へ私達のキリストを導く3つの段階です。信仰(救い)は個人(隠れた)のことではなく、公衆(公)のことです。彼女の証により村の全体がキリストを信じるようになりました。では、私達がキリストへ人を導く動機は何でしょうか。  自己の体験(ヨハ4:29;マコ5:18-20);債務(ロマ1:14-16);地獄の恐れ(2コリ5:11);弟子として礼拝の結果(マタ20:16-20);収穫の働き(ヨハ435-38);人類改良(ルカ14:23-);結実(ヨハ15:16);命を実らすこと(箴言9:30);永遠の報い(ダニ12:3);神の口、言葉となる(ロマ10:13-15);神に認められること(マタ10:32);人霊獲得の冠(1テサ2:19,20)。人霊獲得の実践のやり方は、① 導くべき人は誰かを祈りをもって決める。② その人と仲良くする。③ 自己の救い、祝福の体験を話す。④ その人をキリストを信じる信仰に導く。この喜びを知りたいでしょうか。ならば、この義務を果たしなさい。

2014年8月17日 「残された水がめ - 第2部」


2014年8月17日は先週のメッセージの続きで、ヨハネ4:27-29から「残された水がめー第2部」と題して話されました。

水がめは、神の命に与って、その命を十分に喜ぶために残さないといけないものを象徴しています。ここで語られる「水がめ」は、その聖句の中にあるものだけではないかもしれません。また、各聖句の前後を読む必要があります。水がめには物質なものもあり、さまざまな状況に対する態度、考え、活動のものでもあります。

あなたにある水がめは何であるか聖霊が示してくださるように祈りなさい。

① 妨げる人間関係 (創13: 8, 9  (1-18);イザ 6: 1。ある人間関係はある時まで良いのですが、自分に与えられたキリストにある富を増加し、将来、神の目的に達するための妨げになります。ロトは肉的なビジョンによって選び、滅ぼされました。アブラハムは御霊と信仰のビジョンに従って結果を神様にゆだねました。タイミングと結果を注目。

 人に付けられた傷 (創 41:51, 52)。ヨセフは兄弟たちからひどい目に会わせられましたが、憎しみを返さず、与えられた夢に真実を守って、後に家族を救うことが出来ました。何時とどんな状況の中で祝福されたかを注目。

 奉仕をするため だけの奉仕(ルカ10:38-42)。 これは奉仕の対象である主ではなく、奉仕そのものだけに目と心を付けることです。多くの信者は礼拝する心を持っていないので奉仕をもってその欠けた所をカバーし隠そうとします。礼拝は選択によるものであることを注目。

 価値判断の規準(マタ 4:19-22;マコ10:28-30;ルカ14:33。ものの価値は目的によって定められるのです。ここに、その目的は新しい職業へとキリストの召しです。古い規準(水がめ)を捨てる者が受ける報い(マコ);捨てない者に対する警告(ルカ)に注目。

 未規律のライフスタイル(ヘブ 12: 1-3)。 ここで規律とは訓練によって新しい習慣を付けると言う意味です。イエスの模範と規律しない結果に注目(3-13)。

 心、魂、霊の重荷(マタ11:28-30)。 重荷をイエスの足元に降ろすと仮定している。その後にイエスが与える荷を負う必要があり、そうする時だけに安らぎを得ることに注目。サマリアの女が水がめを置いた後から彼女の状況が変わり、自由な身になった事に注目。